2013年6月17日月曜日

南欧自転車ぶらり旅  第二十八日

トリエステ二日目。
ホテルを変更するため、10時過ぎに新しいホテルに向かって出発。といっても、市内の移動だけであるから、1時間もかからない。バッグパックを背負ったまま、取りあえず、ジェイムズジョイスホテルをめざす。このホテルに変更するわけではないが、自分が日本で下調べをしているときに記した「このホテルの面する路地がいい」というメモが気になってその確認をしてみたかったのだ。恐らくグーグルのストリートビューで見たのではないかと思うが、行って見ると確かにちゃんとした街並みがあった。
ホテルの看板。下の写真の道幅なので建物の写真は撮れませんでした

極限に近い道幅だがちゃんとした街並みになっている


この写真ほど暗い感じはしなかった

 どうしてこの一角だけ街並みが出来ているのか、昨日の調査ではこういう街並みはないように思えるくらい街並みにこだわりがない感じがしたのだが。その理由と思われる事実
がこの街並みを抜けて急な坂を上っていった先にありました。
説明を追加

トリエステの守護神サンジュストの名を冠した城と教会に続く道だったのです。

 そして新しいホテルもホテルサンジュストです。このホテルは須賀敦子が60歳を過ぎてから初めて訪れたトリエステで宿泊したホテルです。彼女の亡くなった夫の出身地がトリエステで、よく二人の間でサバの話が出ていたし、結婚式を挙げたウディーネからも近いのに、実は日本に戻って二十年近く経ってからやっと訪れることが出来たのです。その辺の事情は彼女の「トリエステの坂道」を読んでいただけばと思います。
 
 そして早めのチェックインにも気持ちよく対応してくれたレセプションのお姉さんのおかげで、素晴らしい色彩のコーティネーションの部屋に入って、背中の荷物を置いて、改めて、今日のテーマ「坂道を登ってみる」に挑戦です。歩きでは距離的に無理があるのでチャリユキと一緒です。
 
 サバの詩では、「まず雑踏があり、やがてひっそりして、低い石垣で終る。その片すみに、ひとり腰を下ろす。石垣の終わるところで、街も終る」とあるが、選んだ道が悪かったのか、行けども行けども坂道で、確かに最初は雑踏があったが、あとは住宅がずーっと続いている。100メートルくらい登ったところでトリエステが終わる。この先はスロベニアかベネチア方面の高速道路の標識。人口はサバの時代の方がむしろ多かったのだが、山の方への住宅のスプロール化が進んで、石垣が壊されて住宅が建ってしまったということかしら。それとも詩の場面の坂が別にあるのか。確かBS朝日で放映された「トリエステの坂道」というドキュメントではそれらしい石垣が映っていたような気もする。
 
 トリエステで確認したかったことに、何故ジェイムズ・ジョイスはノラという女性とともにトリエステに来て、15年間もこの街に居続けたのかである。他の都市にないこの都市の居心地のよさを感じさせる何があったのか。それは今も残っているのか。とりあえず手がかりが得られればということで、ジョイスがトリエステにいたときに暮らしていた住所が分かっているので、それを探してみた。
 はじめに住んだのは運河のそばで広場に面した結構立派なビルの3階。ただ建物を見ると2階の階高が高く立派に見えるが、3階は少し見劣りがする。家賃は高そうだが一月しか住まないで、すぐに運河より目抜き通りに近いところに移る。ここに1年弱住み、中央駅に近いところに引っ越すがここは5ヶ月ほどしかいない。この場所はちょっと場末的な雰囲気で住宅地としては今ひとつ。そのあと、目抜き通りに近いところへ戻りそこに8ヶ月住んだ。そのあと目抜き通りから遠くないところで、約2年を過ごす。
ジョイスが住んだ建物にプレートがついている


上のプレートがついていた建物


 その後繁華街から少しずつ離れていき、坂を上り始める。1912年9月から1915年6月まですんだところは騒音も大きいし住宅として住むにはふさわしくないようなところでもあるが、ここが一番長く住んでいた場所かも知れない。ジョイスはこういうところで「ユリシーズ」の構想を練っていたのだろうか。
 すくなくとも住んでいたところを見ても、決してトリエステでなければということはないだろう。やはりトリエステがおかれていた時代状況が彼をトリエステに居続けさせた最大の理由ではないか。つまりジョイスがトリエステにいた時期はイタリアのトリエステでなかったのである。当時のトリエステはオーストリー・ハンガリー帝国の支配下にあった。海に面していなかったオーストリアからすれば、トリエステは世界とつながる希望の港町であった。また当時のトリエステは世界中から多くの人が集まる国際都市でもあり、またユダヤ人にも寛大であったことも居心地に寄与しているであろう。
 実際ジョイスは1906年に銀行に勤めるためローマに行くが、一年足らずでトリエステに戻る。また第一次大戦後チューリッヒからトリエステに戻るが、街の様変わりなどでなじめず戻ってしまう。といって、ジョイスはイタリア嫌いでもなく友人と議論するときにはイタリア擁護の論陣を張ったという。

<ホンイチの街並み>
トリエステのジェイムズジョイスホテルのある路地の街並みです。
同じところの別ショットです

<本日のホテル>
トリエステ「Hotel San  Giusto」☆☆☆
63ユーロで2泊します



 

1 件のコメント:

  1. 「サンジュストの鐘」をパバロッティの全盛期の声で聴きながら、たしかにジョイスがトリエステに長くいたのは国際情勢のせいで、町並みの魅力だったかどうかはわかりませんね。しかし、小山君、ここの滞在で後半生はその余韻だけで生きて行けそうですね

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