長い間お付き合いいただきありがとうございました。
本日が最終日で明日朝、ヴェネチア空港からパリ経由で帰ります。
最初は本当に長くて、このままひと月やっていたら死んでしまうんではないかと思いました。でも、二週間を過ぎると、なんとなく流れが出来てきて、体のリズムが合ってきたように思います。そして最後の一週間は、逆にとても早く感じました。辛いときには時間の進みは遅く、ある程度楽に一日を送れるようになると、早くなるような気がしました。
今日は最終日なので、優雅にヴェネチアで過ごそうと考えて、美術館を一軒とミシュラン☆一つのレストランでの昼食を考えていました。
しかしそういう計画はヴェネチアの乗合船の中で、ポケットを探ってもiPhoneが見つからなかったときにすべて潰えました。iPhoneは生命線ですから、絶対になくしてはならないものでした。今日の時点だと地図がなければもう絶望という状態ではないのですが、それでもショックは大きいのです。ただホテルを出てからヴェネチアの島に上陸するまで一度もiPhoneには触らなかったので、落とした可能性と盗られた可能性も考えられますが、ホテルに忘れてきたという可能性もゼロではないと思いました。
まずはホテルに戻って確認しようと、乗合船を降りて、ローマ広場をめざしますが、どうやって辿り着いたらいいのか分からないので、取りあえず方向だけはわかりますから、そっちの方向にやみくもに路地や橋を移動しました。結果的に客船埠頭のところへでて、そこからローマ広場までは近いので、バスに乗ってホテルに戻りました。
iPhoneはホテルのサイドテーブルの上にありました。クリーンアップが終わったあとだったのですが、充電した場所にそのままありました。
いずれにしても最悪の事態は避けられましたが、もう一度ヴェネチア島に戻る気はしません。ともかくバスの中など蒸し暑くて汗がしたたり落ちます。もう一度あの島の中をううろうろする気力はもうありません。
しかもこのホテルのインターネットは使い放題でなく、二時間で打ち切りという厳しいものなので、これを書き終えると、もう今日はアクセスできないのです。持って行ったWifiのルーターを使えばいいんではと思いますが、マックブックがパスワードを要求してきて、しかも正確に入れても、不正のアクセスとしてつながらなくなっているのです。これはこのホテルのWifiが悪さをしているのではないかと思いますが、他のところでアクセスする機会はないので、これを書いたらマックブックはネットにつなげないことになります。
ということで、反省やら総括やらを書きたいとも思ったのですが、これは日本に戻ってからにしたいと思います。
今日のところは、文章だけで写真はありませんが、ご勘弁ください。
2013年6月19日水曜日
南欧自転車ぶらり旅 第三十日
メストレの街中を自転車で回るが、ヴェネチアのゲートシティ的な要素は全くない。普通の街であり、街並みとして取り上げるほどのものはない。たまに歩道に石を敷いてあるところがあっても、コンクリート二次製品(コンクリートをレンガの大きさに固めて色を塗ったもの)を使っていたりして、街並みの阻害要因にしかなっていない。素材の選定は慎重に、できるだけ天然物を使い、どうしても無理な場合にも天然の石を粉末にして、固めて焼結したタイルや石を使ってほしいのだが。
この道がコンクリ二次製品が敷かれている |
日本ではどこでも見ますがこちらでは珍しい |
この道路は左側に二車線の自転車道路、右側は一方通行。交差点はハンプあり。この道路はいい! |
今回の旅でははじめヴェネチアに寄るつもりはなかった。テレビなどで何度も見ているヴェネチアに今更行ってもしょうがないでしょ、とへそ曲がり根性でパスしようとしたのである。しかし帰りはヴェネチア空港からパリ経由のエールフランスで帰るため、飛行場の近くに宿を取る必要があった。しからばシエナでもそうだったが、ヴェネチアも一度は見ておいてもいいんじゃないか。大体テレビに映るヴェネチアは運河や水路からみた景色が多く、じつは街中の道がどうなっているのか意外と紹介されていない。
そこでバスを降りて、徒歩で行けるところまで行こうと動き回った。幾つかの写真を見ていただくと分かるが、イタリア各地の歴史地区とそんなに変わらない街並みが形成されている。ただ、気づいたのは非常に画一的なまちづくりで、通りごとの個性を出すというところにはいっていない。したがって、ずーっと歩いているとだんだん単調になってくるのだ。その理由は、道に敷かれた石の色はモノトーンが多く、しかも比較的大きな石が同じようなパターンで並べられているからではないだろうか。建物はそこそこ違いもあるが、運河越しに見る建物と道から見るのでは華やかさが違う感じがする。ここの建物は水辺から見られることを第一に考えて設計されている。道の側はどちらかというとおざなりな感じである。でも歩行者しかいない道は静かだし、安心だし、クルマがいない街並みもいいなと思いました。
悪くはないですよね |
これも道幅広く整然としている |
物資の輸送は船が主体です |
運河に沿った建物のファサードが美しい |
<ホンイチの街並み>
<本日のホテル>
メストレ「Hotel Trieste」☆☆☆
メストレの駅から50メートルくらいのところにある交通の便がいいホテル。ここに二泊します。二泊で125ユーロ。
2013年6月18日火曜日
南欧自転車ぶらり旅 第二十九日
二日間街中を走っているので、大体様子がつかめてきた。ホテルの近くの辺りが、まだ走っていないので、まずその辺りをゆっくりと見て回る。
そんなに歴史のある住宅街ということではないが、大きな戸建てもあり、結構な高級数宅地とみました。ただ、街並みという観点からいうと、まだこれから頑張らないとというところが多い。
まだ街並みとはいえない。珍しく電柱が立っていた |
壁と建物の細いすきまを抜けると視界が開ける |
下り坂の先は海である |
収穫がないので、トリエステに隣接した街を見てみようと、海に沿って走る。途中から交通標識にイタリア語とは別の地名が出てくる。スロベニアの国境が近いのだが、いけるだけ行って見ようと今度は北に針路をかえる。ゆるやかな登りが続く、道の左手に突如高密度の住宅団地らしきが見えてくる。
延々と登りが続き、うんざりしたので止まって、「標高ワカール」で調べてみたら、250メートルを超えています。いつのまにかかなり登っていたのです。でも、まだまだ登りが続きます。急にモチベーションが下がり、Uターンしてトリエステに帰ることにしました。
そしてトリエステの街に戻り、サバが最後に住んだ住宅を探すことにしました。
そして石垣で街が終わる坂の上を求めて、サバの家から登っていけそうな道を選んで行って見る。石垣はあったが、街は終わらなかった。
<ホンイチの街並み>
トリエステ 坂の上のトラットリアのテラス席から見たトリエステの街の風景です。街並みではありません。ごめんなさい。
トリエステ 「Hotel San Giusto」☆☆☆
昨日に続きもう1泊します。
2013年6月17日月曜日
南欧自転車ぶらり旅 第二十八日
ホテルの看板。下の写真の道幅なので建物の写真は撮れませんでした |
極限に近い道幅だがちゃんとした街並みになっている |
この写真ほど暗い感じはしなかった |
どうしてこの一角だけ街並みが出来ているのか、昨日の調査ではこういう街並みはないように思えるくらい街並みにこだわりがない感じがしたのだが。その理由と思われる事実
がこの街並みを抜けて急な坂を上っていった先にありました。
説明を追加 |
トリエステの守護神サンジュストの名を冠した城と教会に続く道だったのです。
そして新しいホテルもホテルサンジュストです。このホテルは須賀敦子が60歳を過ぎてから初めて訪れたトリエステで宿泊したホテルです。彼女の亡くなった夫の出身地がトリエステで、よく二人の間でサバの話が出ていたし、結婚式を挙げたウディーネからも近いのに、実は日本に戻って二十年近く経ってからやっと訪れることが出来たのです。その辺の事情は彼女の「トリエステの坂道」を読んでいただけばと思います。
そして早めのチェックインにも気持ちよく対応してくれたレセプションのお姉さんのおかげで、素晴らしい色彩のコーティネーションの部屋に入って、背中の荷物を置いて、改めて、今日のテーマ「坂道を登ってみる」に挑戦です。歩きでは距離的に無理があるのでチャリユキと一緒です。
サバの詩では、「まず雑踏があり、やがてひっそりして、低い石垣で終る。その片すみに、ひとり腰を下ろす。石垣の終わるところで、街も終る」とあるが、選んだ道が悪かったのか、行けども行けども坂道で、確かに最初は雑踏があったが、あとは住宅がずーっと続いている。100メートルくらい登ったところでトリエステが終わる。この先はスロベニアかベネチア方面の高速道路の標識。人口はサバの時代の方がむしろ多かったのだが、山の方への住宅のスプロール化が進んで、石垣が壊されて住宅が建ってしまったということかしら。それとも詩の場面の坂が別にあるのか。確かBS朝日で放映された「トリエステの坂道」というドキュメントではそれらしい石垣が映っていたような気もする。
トリエステで確認したかったことに、何故ジェイムズ・ジョイスはノラという女性とともにトリエステに来て、15年間もこの街に居続けたのかである。他の都市にないこの都市の居心地のよさを感じさせる何があったのか。それは今も残っているのか。とりあえず手がかりが得られればということで、ジョイスがトリエステにいたときに暮らしていた住所が分かっているので、それを探してみた。
はじめに住んだのは運河のそばで広場に面した結構立派なビルの3階。ただ建物を見ると2階の階高が高く立派に見えるが、3階は少し見劣りがする。家賃は高そうだが一月しか住まないで、すぐに運河より目抜き通りに近いところに移る。ここに1年弱住み、中央駅に近いところに引っ越すがここは5ヶ月ほどしかいない。この場所はちょっと場末的な雰囲気で住宅地としては今ひとつ。そのあと、目抜き通りに近いところへ戻りそこに8ヶ月住んだ。そのあと目抜き通りから遠くないところで、約2年を過ごす。
ジョイスが住んだ建物にプレートがついている |
上のプレートがついていた建物 |
その後繁華街から少しずつ離れていき、坂を上り始める。1912年9月から1915年6月まですんだところは騒音も大きいし住宅として住むにはふさわしくないようなところでもあるが、ここが一番長く住んでいた場所かも知れない。ジョイスはこういうところで「ユリシーズ」の構想を練っていたのだろうか。
すくなくとも住んでいたところを見ても、決してトリエステでなければということはないだろう。やはりトリエステがおかれていた時代状況が彼をトリエステに居続けさせた最大の理由ではないか。つまりジョイスがトリエステにいた時期はイタリアのトリエステでなかったのである。当時のトリエステはオーストリー・ハンガリー帝国の支配下にあった。海に面していなかったオーストリアからすれば、トリエステは世界とつながる希望の港町であった。また当時のトリエステは世界中から多くの人が集まる国際都市でもあり、またユダヤ人にも寛大であったことも居心地に寄与しているであろう。
実際ジョイスは1906年に銀行に勤めるためローマに行くが、一年足らずでトリエステに戻る。また第一次大戦後チューリッヒからトリエステに戻るが、街の様変わりなどでなじめず戻ってしまう。といって、ジョイスはイタリア嫌いでもなく友人と議論するときにはイタリア擁護の論陣を張ったという。
<ホンイチの街並み>
トリエステ「Hotel San Giusto」☆☆☆
63ユーロで2泊します
2013年6月16日日曜日
南欧自転車ぶらり旅 第二十七日
ウディーネを8時45分頃出発し、ウディーネ駅へ。9時34分発のリジョナーレに乗ってMonfalconeまで行き、そこからトリエステまで28キロを自転車で走ります。
電車では車掌が検札に来て、「あのな、自転車をそのまま乗せると3.5ユーロ(24時間有効)払って貰わなきゃならないんだよね。でも次回からそうするとして今日のところはいいよ」と(恐らく)言ってました。払うのはかまわないけど、自動販売機では自転車の持ち込み料金を払えないような気がする。窓口に並べば可能だが、この窓口が大体長蛇の列なのだ。だから車内で徴収して貰う方がいいのだが、そんなことをイタリア語で説明するのは無理。
Monfalconeまで約50分。ここで降りて街中を走っているとき、かわいらしい看板を見つけました。これ何の看板か分かりますか。これは通学路か文教地区の目印だと思います、でも男の子と女の子が巨大な鉛筆を脇に抱えて歩いているユーモラスな標識です。
しばらく走るとついに見えましたアドリア海です。
湖のような水の色 |
旅の前半で見た海とはちょっと違う? |
海岸線を走る道路は幹線道路ですが、岩をくりぬいただけのかなりワイルドなトンネルがあったりします。
そして海岸に接した場所には駐車場だけでなく、道路の両側もクルマで一杯です。そして水着で甲羅干しをする人や泳いでいる人もいます。
ここからトリエステの標識ですが、道路の両側は駐車中のクルマの列です |
海辺に水着姿の男女がびっしりという光景ではありませんが結構な人出です |
一人海の中を悠々と泳いでいる人がいます |
まずは、ウンデルト・サバの「トリエステ」という詩を須賀敦子の訳でどうぞ。
街を、端から端まで、通り抜けた。
それから坂をのぼった。
まず雑踏があり、やがてひっそりして、
低い石垣で終る。
その片すみに、ひとり
腰を下ろす。石垣の終わるところで、
街も終るようだ。
トリエステには、棘のある
美しさがある。たとえば、
酸っぱい、がつがつした少年みたいな、
蒼い目の、花束を贈るには
大きすぎる手の少年、
嫉妬のある
愛みたいな。
この坂道からは、すべての教会が、街路が、
見える。ある道は人が込み合う浜辺につづき、
丘の道もある。もうそこで終りの、石ころだらけの
てっぺんに、家が一軒、しがみついている。
そのまわりの
すべてに、ふしぎな風が吹き荒れる、
ふるさとの風だ。
どこにも活気に満ちた、ぼくの街だが、
悩みばかりで、内気なぼくの人生にも、
小さな、ぼくにぴったりな一隅が、ある。
トリエステで生まれ育ったサバは、父親が幼い頃に行方不明になり、ユダヤ系の母親に育てられる。十分な教育も受けられなかったが、古書店を経営したりしながら詩を書いていた。認められるようになったのは戦後のことである。ジェイムズ・ジョイスがトリエステにいた時代と重なるが、二人に親交があったかどうかはわからない。
今日はこの詩の冒頭にある海岸線に沿ってトリエステの端から端まで走ってみました。本当に立派なビルが建ち並び、往時の殷賑を極めたトリエステを彷彿とさせます。手入れも良く、見事です。
街並みという観点から見ると、この街は超越しているところがあるかも知れません。立派な街並みになりそうなのに、ちまちまとピンコロを並べたりするよりも、やるべきところは存在感のある大きな天然石を張り巡らせます。
昼飯ですけど、街中の料理が売りのカフェで食べました。大変美味しくすべて完食しました。今回の旅行でこれだけ沢山の魚を食べたのは初めてです。
運河沿いの建物群 |
運河の先端 |
スケール感が違う感じです |
客船埠頭への歩道なのに何の細工も無し |
スパゲティ・ボンゴレですが、ムール貝も入ってました |
小さな鰯を開きにして、衣をつけて揚げたものです。醤油を忘れて残念 |
2013年6月15日土曜日
南欧自転車ぶらり旅 第二十六日
トレヴィソ駅に行く前に、トレヴィソの街で見残したところを見て歩く。といっても街並みだけではない。トレヴィソにはイタリアの自転車メーカーピナレロの本社工場があるのだが、その直営店が市内の目抜き通りの南端にある。そこをのぞき見した。さすがにイタリア、コンポといってフレーム以外の自転車の構成部品はカンパニョーロが中心。美しいバイクに垂涎。でも高いんだろうな。
トレヴィソまではヴェネト州であったが、ウディーネはフリウーリ=ヴェネツィア・ジュリア州に変わり、トリエステと同じ州になる。ウディーネの人口は約10万人と結構大きい。街の中心に城がある。しかも城のところだけが30メートルくらい高くなっている。香川県の丸亀城のようだが盛り土で築いたのかどうかわからない。しかし見上げる高いところに緑に包まれた城があり、その城への道が素晴らしい。街並みと云えるかどうか分からないが、生け垣と石積みの間の坂道を上がっていくのだが、街がだんだん眼下に広がっていくようになる。
舗石は丸石を埋め込んである |
舗石は丸石を埋め込んである。塔の上には3人の聖者ではない人が乗っている |
よかった、よかったとほっとして、リベルタ広場を探しにかかる。しかしどうもそれらしいものが見つからないので、ミシュランの地図で検索をかけ、地図を頼りにたどっていくと、なんと先ほどの銀行のあるところに出てしまった。
ウディーネは普通の街並みが結構良くできている。それらを紹介したい。
ここがリベルタ広場 |
上の写真とは逆の方向から撮ったもの |
全面玉石埋め込み型の道 |
たいした通りではないが壁の色の微妙な変化がいい |
今日の昼はトラットリアの定食(3品で10ユーロ)を頼んでみました。結構美味しくて満足しました。
エビや魚の身が入ったスパゲティ |
薄切りの豚肉をちょっと茹でて香草の上に載せチーズを振りかけたメイン |
サラダ。自分でオリーブ油とバルサミコ酢、塩で味付けします
あと、今日もジェラートを食べました。今日は二段積みでリモーネとバニラです。
|
ウディーネの城への街並みです。本文中のものとあわせてご覧ください
珍しく糸杉が見えました |
<本日のホテル>
ウディーネ「B&B Hotel Udine」☆☆☆
ペントハウスの部屋でした。49ユーロ
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